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Masked Superstar Biography


マスクドスーパースターインタビュー
協力:ミッドアトランティックゲートウェイ

翻訳版近日公開予定
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■はじめに
 マスクドスーパースターことビル・イーディ氏のレスリング人生は、ウエストバージニア州立大学修士課程を終了後、高校の歴史教師として働いていたときに偶然訪れました。当時彼はアメフトコーチとして指導をしている際にその体のサイズからNewton Tattrie氏からスカウトされプロレス人生が始まったのです。後にボロ・モンゴル、マスクドスーパースター、スーパーマシーンそしてアックスデモリッション・・・として活躍した彼は約30年間プロレスに携わり今でもリングに上がり続けています。そして今、非行少年指導者としてジョージアで活躍しているのです。

このマスクドスーパースターBIOは,マスクドスーパースター氏本人、Georgia Wretling History、Rich Tale氏及びMid Atlantic Gateway Mr.Dick Bourne氏の協力により翻訳及び加筆、編集したものです。

■教師時代 〜 プロレスの世界へ

 教師として働いていた夏休み中、友人がプロレスを見に行こうと誘われたのが全ての始まりでした。今まで”TVでさえプロレスを見たことがないのにライブを見に行くなんで・・・”って思ったことを今でも覚えています。そしてピッツバーグで Geto Mongolのプロモーションによる試合を見に行き予期せぬことが起きたのです。

 Getoはその会場で私にもし興味があればレスラーになることを薦めてトレーニングをするように依頼してきたのです。私はレスリング経験もなく試合の仕方でさえ知らなかったことで困惑しました。しかし、体力面等を含めレスラーになるまで多くの時間は必要ありませんでした。

 私(ビル)と友人Ronはラリーズビスコと共に約9カ月のトレーニングをGetoの所有する農家で過ごしました。私はまだ学校教師でしたが、このトレーニングに通じてレスラーとしての魅力を感じたのは事実です。そして、私は教師の仕事を続けながら、ついにプロレスラーとしてデビューすることを決意し、時折リングに上がるようになっていたのです。更に選択を迫られます。1973年私はGetoに呼ばれプロレスに専念するように薦められたのです。
 (Nov. 29, 2004更新)

■モンゴルズ誕生秘話 〜 NWF

丁度この頃、Getoのパートナー(Bepo)は、怪我をしており、予定していたプロモーションツアー(遠征)行うことが出来ない状態で、Geto & Bepoのモンゴルズが成り立たない状態でした。しかし、彼らの契約は夏に予定している日本遠征も含まれており、Getoとしてはパートナーが必要だった訳です。私は彼からのオファーを受け入れて、急遽モンゴルギミックとして変貌を遂げ、後に、Bolo Mongとして知られるようになったのです。最初のブレークにきっかけは、彼と行動を共にした日本遠征であり、このツアーは多くのトップレスラーとの仕事が出来たこともあり非常に良い機会となりました。(1974年新日本:30年前)

 アメリカに戻って、Getoは、私と共にモンゴルズとしてチームを続けると決め、 NWFエリアへ短期間のサーキットに出掛けた後、我々はAnn GunkelのAll-Southern Wrestling Allianceへ参加するためジョージアへ行ったのです。 それはNWAエリアでOutalwとして働くことを意味していることに私は全く気づきませんでしたし、そこで私が知った全ては、私が誰かにブッキングされているといことでした。このような経験は今までに無く、非常にナイーブなったことを思い出します。しかし、我々はレスリングを続け同様にブッキング従い仕事を続けたのでした。(Dec.2nd ,2004更新)

■IWA〜モンゴルズの解散〜マスクドスーパースターの誕生

 All Southエリアで人気を得て成功を収めた後、私達モンゴルズはEddie EinhornのIWAエリアへサーキットへ出掛けました。IWAは我々をOutlawとして仕立て上げ、Outlawタッグチームとして人気を得ることができたのです。しかし、私自身、このようなOutlawとして仕事をしたことが無くここでも困惑しましたが、結局、モンゴルズの人気が私を本気でOutlawにさせたのでした。IWAのような団体でレギュラーとして働くのは初めてだったこともあり、家族の元に帰れない日々が続き誰がこれらの代償を払うのか・・・・そう思う日々が続きました。

 IWAの崩壊後、クロケットプロモーションのブッカーであるジョージ・スコットが我々モンゴルズをミッドアトランティックエリアでしばらく働いてみてはどうかのとオファーから、オレイ&ジーン・アンダーソン達と一緒に仕事をすることになり、スコットは我々にここに留まることを薦めたのでした。しかし、彼らの考えは、違うキャラクター(ギミック)で私達を登場させることを考えていたのでした。

 ここミッドアトランティックにおいて、ジョージと私達は非常に良い関係にあり、仕事も順調でした。そしてある日ジョージはモンゴルズを解散して、私に別なキャラクターとしてマスクマンになるアイディアを提案してきました。しかし、私は彼に『Getoを裏切ることは出来ないし、彼が私をブレークさせてくれたパートナーとして忠誠心もあり、それでは出来ない』と一度は断ったのです。Getoは非常に思いやりのある人間であり、尊敬に値する人だったからです。
 しかし、実は彼Geto自身、この長いシャーロッテでの遠征に対して、そろそろ地元に帰りたいと考え、その準備をしており、私に『ここに長い間滞在したくない』と言い、地元に帰ってしまったのでした。
ついにモンゴルズは解散することになり、その後、ジョージはスーパースターのキャラクターを思いついたのでした。

(Dec.4th ,2004更新)


■ボロ・モンゴル&マスクドスーパースターデビュー

 祖母(奥さんのお母さん)がマスク作りで忙しい中、私はスーパースターとしてのインパクト作りをボリス・マレンコと共に考案中でした。この地域は以前スーパーデストロイヤー(ドン・ジャーデン)がここミッドアトランティック地区のヒーローとしてかなりの人気を得ていましたが突然去って行ったこともありジョージは彼に代わるマスクマンが必要だった訳です。

 私自身、スーパースター変身して思ったことは、誰も私がボロ・モンゴルであることに気づかなかったのことです。マスクドスーパースターとしての初めての試合の前夜、私はボロ。モンゴルとして試合をして、翌日、スーパースターとしてデビューしたのにもかかわらず誰もスーパースターがボロであることでさえ分からなかったのです。これには本当に驚いた反面、今までに無い自分を演出できると考えたのでした。 (1976年ミッドアトランティック地区)
 
 とにかく、誰も気づかなかったのです。しかし、会場入りの際、車は変えなければならず、当時フォードLTDを持っていましたが、ス‐パースター用の車として新車のバンを購入して使い分けたのです。まだこの頃私は、ボロとしても試合をしていたこともあり、ある日は,フォードLTDを運転してGreensboroまで行き、ある日はスーパースターとしてGreenvilleへ緑のバンで行くなど、車さえも使い分けなければならなかったのでした。そして多くのファンは私がスーパーデストロイヤーの変身であるとの噂を楽しんだほどでした。 (Dec. 8 ,2004更新)



■ジョージア地区〜MrレスリングUとの抗争

 その後、私は、ミッドアトランティック地区において約2年間程、マイティー・イーゴリ、ブラックジャック・マリガン、ポール・ジョーンズ達とのビッグマッチやサーキット・イベントを続け、 1978年に、ジョージアに戻りました。 ジョージアチャンオンシップレスリングでは、ミスターレスリングUが地元の雄として君臨しており常に多くのファンから支援を得ていました。彼との試合は必然的に避けられなくなり、地元ビッグマッチとして多くのファンを魅了させたのです。興行成績も良く自然と待遇もよくなり、更にファン達は私とレスリングUとの試合を飽きることなく求め続けたのでした。

 私自身、J・ウォーカーに関しては、皆、彼のことについて”頑固”や”どの試合も上手く対応・適応しない”等あまりいい噂を聞かなかったのですが、私自身はそう感じませんでした。私達の試合スタイルはピッタリと噛み合い、直ぐにファンに受け入れられドル箱カードとして長い間、ジョージアで人気カードとなったのは周知の事実です。何度も試合を繰り返しファンを熱狂させたのでした。私と彼は、互いのキャリアやプライベート等について話をすることはありませんでしたが、多分誰かが彼のことについて過去中傷や信頼を裏切る事などが、彼が一層用心深くなった原因だと推測します。とにかく彼は噂されるような人間ではなかったことは事実です。
(Jan.6,2005更新)

■日本遠征とモントリオール  

 私は、1980年代初旬ジョージア地区とノースカロライナ地区に留まり試合とOFFをここで2年間過ごしました。この地区ではB・J・マリガン、W・マクダニエル、M・レスリング、R・スティムボート、R・フレアー、J・スヌーカー、P・ジョーンズ、T・リッチ等のレスラー達を中心とした集結していた地区です。私も色々なレスラーと抗争を繰り返し、カードによってはドル箱カードとなりファンを熱狂させ、シングルやタッグ選手権のタイトルを多く獲得しました。
 もちろんこの時期には日本遠征もありましたが、妻がここジョージア州アトランタを気に入ったこともあり家を購入したのです。娘達もここジョージアで育ちました。ここジョージアはミッドアトランッティック地区、フロリダ、セントルイス等当時の主要マーケットへの移動は位置的に非常に好都合だったわけです。

 その80年代初旬、短期間ビル・ワットのミッドサウスグループに参加してその後モントリオールに遠征しました。モントリオールは日本遠征で出会った領土にディノ・ブラボーとの友好関係によるもので実現したのでした。この頃、日本へは長いときで1年で14週間も日本で仕事をする年もあり、1回の日本遠征で約1ヶ月以上は日本に滞在していたと思います。日本では色々な人(レスラー、知人)と出会い今でも良き思い出となっています。猪木、坂口、藤波・・・・新日本は私に最高の待遇でいつも迎えてくれていたのです。試合も常にエキサイティング。数多くの名勝負があったと信じています。当時の新日本はT・J・シン常に外人側の主役だったはずですが80年代になるとアンドレ、ローデス、ホーガン、ハンセン、バックランド、ブッチャー、マードック等多くの強豪が来日していました。私自身、長いサーキットと同じはあまり好む方でないのですが日本は特別でした。実際、B・ワットのエリアはあまり好きでなかったので、ほんの短期間のサーキットを終わらせて、直ぐにモントリオールに移動したのでした。結局モントリオールに数ヶ月も滞在しました。自然に溢れ、試合数も適度でディノが私を迎えてくれたことが私を数ヶ月も留めた理由じゃないかと思いますし、家族も時折、遊びに来たりといい環境を与えてくれたことも大きい要因だと思います。 (Jan,22,2005 更新)

■ボリスと葉巻 

 話は前後しますが葉巻について少し話を。デビュー当時ボリス(Gマレンコ)は、常にスーパースターとしてのムーブメントを考えていました。要はいかに私をブレークさせるかです。彼は非常にスマートな人間であり、私にとっては非常にありがたい存在でした。ある日彼は、あることを思いつきました。”いかにスーパースターをブレークさせるか”彼の答えは葉巻でした。

 彼はタバコはもちろん葉巻は嫌いなのですが、このために試合中、リング下で葉巻に火をつけたのでした。そしてマイティー・イーゴリの試合の時に、それは起こったのでした。イーゴリの目に葉巻を突きつけたのです。これがファンの度肝を抜き、一躍ヒールとしてTOPの座を奪ったのでした。もちろん本気で目に突き刺した訳ではありません。ファンを目を奪うことは当時のスーパースターにとって必要だった訳です。それから彼のとの抗争は続き、またあらなた抗争の始まりには葉巻を使ったのです。この頃”ベストフレンド”アンドレに出会ったのですがどうも彼は、M・イーゴリのことを嫌いだったようです(笑)。
 そしてもちろん日本でも・・覚えているファンも多いと思いますが当時、多くのファン達はビックリしたことでしょう。ボリスとの仕掛けで新日本No.1である猪木に仕掛けたのです。当時葉巻は私にとって重要な武器だったのです。 (Jan,25,2005 更新)


■フロリダ遠征と新WWFチャンピオン

ミッドアトランティックやジョージアを拠点にしていた時代、私はフロリダへも遠征しました。ここではミッドアトランティックやジョージアを異なりWWFのプログラムだったのです。当時WWFはNWA管轄下であり、WWFチャンピオンもNWA地区へ遠征していたのです。当時はビリーグラハムがタイトルを保有しておりフロリダ地区にも遠征していた時代でした。

レスラー誰もが次のチャンピオン候補が誰なのか注目していたときフロリダでニューチャンピオンが誕生したのです。新WWFチャンピオンはボブ・バックランド。私自身、彼はナイスガイでありのレスリングに対しても非常に真面目に取り組んでいました。多くの人々は彼のファイトスタイルが地味だとかインタビュー時もRフレアーやT・リッチのようにな華やかさもなくあまり応えない、アピールが足りない等で批判されていたのです。彼はいたってシンプル。新鮮に見えたのは事実ですが周辺からは彼ではWWFを支えることは出来ない等の理由で彼を批判続けたのです。
マクマホンSRはこのことで非常に悩んでいましたが結局、彼のサポートを続け役5年間もの期間MSGの主役の座として支えたのでした。当時、誰がボブがチャンピオンになるとは思ってもいませんでした。
私も彼と試合をしましたが、彼もいい仕事をしたと思うし、個人的には一緒に働きやすかった。彼はストロングマンの1人であり、お世辞抜きでナイスガイでした。


同時期、私はマクマホンSRから好条件でWWFに誘われていましたが、WWFに行くつもりは全くなくミッドアトランティックとジョージアに留まったのです。しかし、その後、WWFに度々出場するとこになった訳ですが、その理由は私のリスペクトする友人の影響だったのです。(Feb,11,2005 更新)
 


■WWFとマシーン軍団 

 80年代前半頃、私はジョージア、シャーロッテを中心に試合をしながら日本遠征も続けていましたが、マクマホンSRとの出会いもあり度々ニューヨークのWWFに誘われていました。ボブとの仕事も楽しく彼がフロリダに来ると出場等、短期的でこそ出場していましたが、あまり長い滞在をする気もなく断り続けていました。当時、長期サーキットは日本のみ。80年代になると必然的に新日本からのブッキングが多くなり、アンドレ、ホーガン、ハンセン、ブッチャー、マードック、スヌーカそしてブロディ等・・・米国でもTOPクラスのレスラーとの日本サーキットは本当にエンジョイできたのです。

 しかし、ある日本遠征時をきっかけにその後WWFへ行くことになったのです。それは皆さんも知っている”スーパー・マシーン”。 アンドレと日本サーキットをしたときのことです。日本ではS・S・マシーンが一時ブレークしていました。そして、夏のツアーで日本に到着してアンドレとオフィスに行った時のこと、当時の日本人マネージャーが、”何か違うブレークができなか?”・・・これに対してアンドレが突然”俺達もあのマスクを被らないか?”と・・・・。私は『・・・・・・』。マシーン軍団はアンドレのアイディアだった訳なのです。そのアイディアにはマネージャー(若松)も喜んで”新しいタッグチームを作れ”との強い要請があり、我々はマシーン軍団を結成しました。このギミックは、ファンの誰もが我々を知っていることであり、アンドレは凄く楽しんでマスクを被っていました。確か日本では、ほんの一時期のみのギミックだったと記憶していますが、今までとは違った新鮮さがあったのは確かです。

 その後、マクマホンJRの要請やアンドレの希望もありそのままマシーン軍団として米国NYへ逆輸入されたのでした。前にも述べたとおり私自身NY(WWF)には興味がなく、アンドレと一緒にNYへ行くつもりもはありませんでした。そして、ジョージアでまたマスクド・スーパースターとして復活する予定でした。 しかし、友人アンドレから”どうして一緒に来て欲しい”の強い要請がありNY行きを決意したのでした。 (Feb,21,2005 更新)


■NYマシーン軍団増殖 

 スーパーマシーン。WWFへは以前にもマクマホンからの依頼により短期的のみに関し出場していましたが、アンドレとマシーンとして出場したのは彼との友情によるものでした。彼は常に白黒はっきりした性格で物事を判断していたのですが、NYでジャイアント・マシーンとして登場したことは彼自身、よほどマシーンへの変身を気に入っていたんでしょう。当時彼がストレスを感じているようには思えなかったのです。もちろん一時のギミックでしたが予想以上にファンが熱狂していたことを覚えています。

 NYファン皆ジャイアント・マシーンが誰なのか知っている。これがまたファンに受けたようです。NYマシーン軍団は次々と増殖して、私(スーパー・マシーン)、ビッグ・マシーン(BJマリガン)を主にパイパー・マシーン(R・パイパー)、そしてついにハルク・ホーガンまでがハルク・マシーンとしてNYに登場したのです。また、各地域でも色々なレスラーがマシーンになり、一時のブームになったのです。

 この当時、WWFは勢いがあり何を仕掛けても成功した時期でした。NWAを凌ぐ勢いでテリトリーを拡大していった訳です。しかし、WWFは段々とショー化する傾向であったことは否めません。私はこのシチュエーションには馴染めず、NY滞在も正直自分の本意ではなかったのです。試合をしていてもあまり気が乗らなかったのでした。しかし、その後、自分の意向に反しこのNYに長く居座ることになるのです。それは・・
・・・・・・。  (March,12 ,2005 更新)

■そして再びNYへ - デモリッションズ・アックス誕生秘話(1) − NEW

この時代、86年には短期的にジョージアに戻りスーパースターとして試合を続け、時にはフロリダにも遠征し、ローカルのヘビー級のベルトも獲得しました。もちろん日本遠征も続けていましたが、再三に渡るWWFからの強い要請もありジョージアとNYとの往復が続きました。当時アンドレはWWFでホーガンとを凌ぐ程のスーパースター彼からの依頼により結局またWWFへ戻ったのです。以前マシーン軍団として短期間NYのリングに立ちましたが家族ジョージアに置いたままの生活ははっきり言って馴染めなかったのです。とにかくWWFは遠征が長く且つハード。自宅に帰ることは困難な状況でした。

 丁度、この頃当時のNWAではロード・ウォーリアーズが人気を呼び一世を風靡していたことはファンの皆はご存知でしょう。WWFでは彼らの対抗馬を探していた時期です。私はあるオファーを受けのです。それはデモリッションズ・・・。リーダーとしてアックスになることでした。 
(June,3 ,2005 更新)
(続く)


Special Thanks to:
Geogia wretlinghistory.com
Mid Atlantic Gateway.com
Mr.Bill Eadie.
(1)来日記録  (2)タイトル  (3)BESTマッチ  (4)日本の思い出  (5)流星仮面  
■マシーンに変身したレスラー

1)Super Machine (Bill Eadie)
2)Big Machine (Blackjack Mulligan)
3)Giant Machine (Andre The Giant)
 *Manager: Capt. Lou Albano

4)Hulk Machine (Hulk Hogan)
5)Piper Machine (Roddy Piper)
6)Animal Machine (George Steele)
7)Crusher Machine (Crusher Lisowski)
8)Macho Machine (Randy Savage)
9)Dragon Machine (Ricky Steamboat)
10)Junkyard Machine (Junkyard Dog)
11)Rebel Machine (Dick Slater)
12)Honky Tonk Machine (Honky Tonk Man)
ジャイアント&スーパーマシーン
アックス・デモリッション